嬉しくて、悲しい話
とあるイベントのレポートを書いた。
その記事は、イベントに関わったとある団体のWebサイトに掲載された。
掲載されて1週間経った今日、
その記事を読んで感動したという人が現れた。
長くもなく、簡潔な記事。
私にとっては、もっと書きたいなぁと思うような分量で、出来事に沿って事実を述べていくようなものだった。
その中でも、少し、自分の視点を入れたいなと思って、思いを込めて書いた一文があった。
その子は、その部分を読んで新たな、自分の進みたいと思う道が開けたと言った。
こんなのは、本当に嬉しい。生きていて、良かったと心から思うのだ。少しでも、諦めないで工夫してみて良かった、と体が震える。
それと同時に、ああもう、ここから抜け出せなくなった、こうして抜け出せなくなるのだなと思う。先ほどまで、今頂いているお仕事をキリよくしたら出版社に就職してきちんと作法や常識みたいな部分を集中して学びたいと思ってたのに。しっかりお金を稼がなきゃと思っていたのに。
決意したと思っていたのに。本当に好きだと思うことに気づけたと思ったのに。
何がしたい、誰のためにしたい、そんなこと数ヶ月、死ぬほど考えてきたつもりだ。動いてきたつもり。
なのに、全然分からない!
なんなんだもう、嬉しいし、悲しいよ。
そんなこと言いながら、今の一番の気持ち、私は、その子の活躍を祈ってるんだ。
55日目
55日目。
思っていたよりも早く、
24歳と半年ほどでフリーター人生が幕を開けた。
ここのところ色々あり、
会社を退職することになった。
(この経緯を説明しようとすると、簡単には説明できそうもない。友人にはかなり話を聞いてもらって、色々相談に乗ってくれて、とても心強かった。友達って素晴らしいな、友達ホント好き。)
多分、ここ最近のブログはけっこう感傷的で、明らかに何かにぶち当たった中学生のリアル(昔流行ってた個人TLみたいなやつ...)になっていたので、けっこう恥ずかしい。
悩んでる最中はそんな不安定なメンタルだったけど、そうと決まると案外自分も肝が据わっているというか、いかにフリーター生活を送っていくかということを真剣に考えている。
今後は、何日目とかのタイトルでなくて、ちゃんと日々の記録をつけていこうかなとか思っています。
今日は、原宿キャットストリートに面したROASTARYにて打ち合わせからスタート。
(寺田倉庫の物件だそうで、めちゃめちゃ内装が凝っていた。エスプレッソにソーダがついてきて、気が利いた感じ。)
キャットストリートの地域コミュニティを作っていく活動をしている中村元気さんとの打ち合わせで、情報交換というか近況報告会のような感じ!
ソーシャルグッド大好き芸人として、社会課題解決をしていくことに対して開き直って生きていこうと思ってた矢先、同じ方向に走っている先輩と2時間くらい語り合ったのはとても勇気が出た。
ソーシャルグッドって、流行りワードだよねと揶揄してる人いるけど、どっからどう考えても解決した方がいい課題ってこの社会には確実に、大量にある。
ただ、人を犠牲にして自分がうまい飯を食う、みたいなことがなんだか気持ち悪いよねっていう気持ちであって、ましてや人を犠牲にしていることすら気付けない情報モデル・経済モデルの中で幸せに生き続けるのってバチがあたるでしょ?という人としての感情がベースなのである。
地球が汚染されていくのは、宇宙的な摂理からしたら別にどうってことないかもしれない。そんなことちっぽけすぎちゃって。地球なんて爆発してたくさんの生命体が死んでも、宇宙は特に何も変わらないかもしれないし。
だから、なるべく多くの人がなるべく幸せに、人を犠牲にしないで生きていくってことが、いいんじゃないかなと今は思っている。動物とか植物含めてね。
そんなことを考えながら、
officeのソフトも買いました。
何に初期投資するか、考えるのが楽しい。
42日目
42日目は、ネガティブについて。
あーーー!
疲れた、しんどかった、悲しかった、さみしかった、辛かった、失望した、がっかりした、やる気をなくした、どうでも良くなった、キレそうになった、腹が立った、心が狭くなった、偏屈になった、自分を棚に上げた、サボった、うそついた、言い訳した、逃げた、隠れた、隠した、とぼけた、無関心なふりをした、責めた、自分を守った、自己嫌悪した、自分なんか嫌い、消えたい、過去を消したい、決めたことを取り消したい、なかったことにしたい、やめたい、投げ出したい、潰したい、暴きたい、愚痴りたい、無視したい、分からない、逆らいたい、言うこと聞きたくない、言い返したい、論破したい、弱みを突きたい、ほめられたい、かわいいと言われたい、女性としてセクハラされたくない、気持ち悪い、好きなようにしていたい、ほっておかれなくない、かまってほしい、好かれたい、恋されたい、愛されたい、自由でいたい、無責任でいたい、心配されたい、怒られたい、馬鹿にされたい、子供扱いされたい、気を使われたくない、平等でいたい、大人として見てもらいたい、優しくされたい、ツンケンされたい、振り回されたい、サプライズされたい、プロポーズされたい、結婚したい、結婚式したい、ベタでいい、シンプルでいい、自分らしくしたい、自分たちらしくしたい、彼らしくしたい、目立ちたい、いいねされたい、Facebookで苗字変えたい、彼のSNSにも登場したい、恥ずかしい、妊娠したい、赤ちゃんかわいがられたい、自分に似ないでスリムになってほしい、ずるい、両方に似た顔がいい、木の家に住みたい、お金かけたくない、楽にお金稼ぎたい、ちゃんと良いことをしたい、お金そんなになくてもいい、かっこいい車に乗りたい、家族旅行に行きたい、質素な暮らしでいい、自然の中で暮らしたい、綺麗なとこほがいい、安全がいい、便利がいい、余裕がいい、のんびりがいい、暇疲れしたくない、友達とお喋りしたい、カフェ行きたい、マックはいやだ、スタバもいやだ、コンビニもいやだ、ナチュラルローソンがいい、フレッシュジュースがいい、甘いカフェラテも飲みたい、太りたくない、健康でいたい、我慢したくない、好きなことしたい、好きなもの食べたい、好きな人と抱き合いたい、好きな服を着たい、好きな話をしたい、好きと思った時に好きと言いたい、嫌いと思った時に嫌いと言いたい、拒否したい、追いかけられたくない、ほっといてほしい、引き止められたい、強引でもいい、怒りたい、音信不通にしたい、携帯を捨てたい、見つけてほしい、許してほしい、笑わせてほしい、やれやれと思われたい、喫茶店でケーキセットをおごってくれたら嬉しい、機嫌取られたくない、自立したい、旅したい、どこでもドアが欲しい。
ネガティブは、ポジティブと紙一重だね
34日目
34日目は、続けることについて。
わたしはかなり、続けるのが苦手である。
三日坊主、飽き性、そんなことをよく言われて来ました。
でも、こんなこと言うと信じてもらえるか分からないけど、人に対して飽きたことは一度もない。
中学生の頃、「ずっと一緒にいすぎて飽きた」と友達に言われたことがあるのだけど、その感覚が全く分からずに悩んだものだった。
もしかしたら、私のリアクションがあまりにも画一的だったのかもしれないし、話がつまらなかったのかもしれないけど、「飽きられたらどうすればいいんだろう」と考えていたりもした。だけど、距離を置かれていることを受け入れ、違う子と一緒にいるのを見て、楽しそうな彼女に戻って良かった!とか思いながら日々を過ごしていたものだった。
飽きる、というのはつまり、
私にとっては「これに関してはだいたい分かってしまった」と感じてしまうことだと思う。
海外生活というのがどういうものか
テストで満点をするためには何をすればいいか
先生に褒められるためにどう振る舞うか
バスケがどんなスポーツなのか
人気者ってどんな生活をしているのか
原宿に行きつけの店があるとどう楽しいのか
勉強しなくなるとどうなるのか
カフェのバイトがどんな内容なのか
とか、私がこれまで興味を持っていたのは何かしらの「パターン自体」のことで、そうなってくるとその大まかな一般的な流れを知ることで満足をしてしまうわけだ。
かつての媚売り生活の原動力は、実は、褒められたいとか、みんなに好かれたいとか、その感情を"体験してみたい"という興味にすぎなかったのかもしれない。
例えば、その行為自体がとても好きだとか、そういうことがあまりないのかもしれない。
これからの人生も
知ること、に永遠に執着をしていくのかもしれないなぁ〜。
今の仕事が楽しいのは、「知ること」が仕事として成り立っているからなのかもしれない。
知っているとその行為をする際に得する、とかそういう副次的なものではなく、知り・伝える、そのことこそが任務なのである。そして、それは私にとっては非常に快楽的でスムーズなことなのだ。
人に関しては、一般的なパターンを知ったとしてもあまり意味がない。
例えば生まれた頃から一緒で、家族ぐるみの付き合いをしている幼馴染の子がいたとしても、その子のことを知ってるなんてことは永遠に自信を持てないと思う。
私にとって、人はいつでも不可解だし、不思議で仕方がない。知っても知っても、知りきれないし、けっこうすぐに変わったりもする。
今でも、過ぎたことを思い出して頭を悩ませたりしてしまうし。
それは地球とか自然も同じで、だから今農業のことを考えているのがとても楽しいのかもな。
こうすれば評価される、なんてことはなく、常に、自分がどの立場にいるのかを考え続けなければいけない。正解と勝ち負けが分からない、重力もない宇宙みたいな世界だ。
絶対に飽きさせてくれない。
まあそんな調子だから、
人に飽きることはないのです。
テーマに設定したのは、
実は夜帰りが遅くて早く寝たいという気持ちに、ブログ続けるぞという気持ちが負けたからです。
「ブログを書き続ける」という生活がどんな生活なのかはだいたい分かりました。
でも、ブログを書くことで(できるだけ)毎日自分のぼんやりした思考を言語化してアーカイブしていくのはけっこう楽しいので、続けます。
このブログを書くこと以上に楽しいことを見つけちゃったらこのブログは止まりますが、ぷつぷつ途切れても書き溜めていこうね山川さん。
ではおやすみなさい。
30日目
30日目は、一人暮らしについて。
越前海岸沿いの、日本海がどどんと広がるロケーション。
http://fukui-trialstay.tumblr.com/
のちのち、体験レポを書くのですが!
今この大きな古民家に1人で畳の上に転がってiPhoneの画面をパタパタやってます。
素晴らしい環境。。
思い返せば先週はブログを怠り、書けば超個人的で感情的で比喩ばかりの日記。
疲れていたんだろうな...。
外から聴こえてくる、
奥行きのある虫の声が心地よいよ。
200L 100円の温泉でお風呂にも入って
ようやく身体がゆるまった感じです。弛緩。
ここは天国でしょうか!
...タイトルの一人暮らし、に戻ります。
今まさに1つの住居に1人でおりますが
この間、山川家にて大ニュースが発表されました。
山川宅、3年後に解散だってよ...。
父親が3年後に定年迎えるタイミングで、今のマンションの1室を売りに出すらしい。
そもそも弟は来年就職して家を出るだろうし、3年後に妹は社会人になるしで、いよいよ「大人になるってこれか」って感じがしています。
私、家族大好き芸人なんですよ。
父と母の若い頃を想像するだけでも尊くて涙が出るし、妹と弟にお返しがもらえなくても毎年誕生日プレゼントをあげてるし、なんでもない日にお土産買ってく。家族一緒に酒を飲むのも凄い好きだし、クリスマス付近のどれかの日は家族とクリスマスするために空けるし、父の日と母の日とか家族の誕生日祝いでご飯食べる時は仕事強制的に終わらせて帰る。ウッ...
3年後にもうこの実家が無くなるなんてめちゃめちゃ悲しい。
風呂上がりに炭酸水で各々好きなシロップで割って飲む習慣が愛おしい、妹の氷食症も愛おしいけど身体が冷えるからやめて
犬の映画を観て泣くのと同じように、家族の映画を観て号泣する。昔の写真に写る父と母を見るとその時の2人にもまた会いたいし、耳たぶさわって寝たい!!!!!!!!川の字で寝たい!!!!!!!!!!!!!!
ぬぁーーーノスタルジーーーー!!!!!!
そんなわけで、この間 友達3人でしようと言ってたシェアハウスの話を降りようと思って色々考えた。
ああ、それ考えてたのもあって頭が疲れてたんだ。
心から申し訳なかったし、自分も楽しみにしていたんだけど、弟が巣立つまで一家で暮らす1年間は親孝行したいなと思うとなんだか心がモヤモヤしてしまい。
(今、寝っ転がってた目の前にゴキブリが通ったが、こんなに動じないとは。本当に自然適応力上がったな。「ゴキブリちゃんっすか」とか脳内で語りかけてた。)
というわけで一人暮らしは、まだいいかな(24だけどな...)と最近思ってたんですが
一人暮らし、楽しそうと今この瞬間思っております。
1人で暮らしを考えていくのもなかなか面白いんでしょうね。
いつお風呂入ろうとか、明日の朝ごはんはどうしようかとか、何時に起きて洗濯しようとか。
食材も、自分の好きな調味料とかをちびちび使いながら食べ過ぎることなく食べて。
豆電球のオレンジの灯りだけ頼りに。
耳は塞がず、外の音を聴いて。
ってこれは都会では実現しづらい一人暮らしだね。
ここを改修する時、たくさんの桶があったと聞いた。多分、雲丹をとっていた海女さんの桶で、漁家が暮らしていたんだろう。
優しい空気が流れているな、と感じる。
最後に一曲、好きな曲を流して眠ろう。
29日目
29日目は、悲しい気持ちについて。
悲しい時、寂しい時、
胸が締め付けられるという表現があるけど、
それは本当なんだな。
なんだかずっと肩が張って凝っているような。肩がムズムズして、大きな音で音楽(それも、パンクロックみたいなやつ。)を聴きたくなって、ずっと下を見て歩いて、そのままアスファルトに頭から呑まれてしまいたくなる。ぬっと、アスファルトがまだ固まる前に逆戻りして、どろりと頭から沈んで行きたい、アスファルトに連れていかれたい。悲しい理由、寂しい理由は、誰かと共有したらパンケーキの上のバターみたいに溶けてゆくかなと思っていたけど、そんなことはしないし、出来なかった。金曜日の夜だったんだから。明日は土曜日だから。TOKYO FRIDAY NIGHTに入り込む隙間なんてなかったんだ。想像だけがどんどん現実味を帯びていって、現実で分かる限りのことなんかよりも酷くどんよりした気持ちにさせる。馬鹿だ、馬鹿なのだ。だって、想像なんて自分で勝手にしているだけで、自分を悲しく、寂しい気持ちにさせているのは自分なのだから。
やっと家に着いたらまだ21時で、お風呂に入ってぼんやりと汗を流した後、サバの味噌煮をゆっくりゆっくり食べた。その後に、コードブルーの最新話を観た。いつも通りだ。いつも通り、何も変わらない現実がある。それはそれで大好きな現実がある。安心する。果実シロップのソーダ割りを飲んで、ベッドに寝転がっている。
今度は、肩が固まるような悲しさではない。
身体が悲しさで緩んでいく。
悲しい気持ちにも、いくつか種類があるみたい。
最近では1番心を開いて、なんでも話していた人が、もういつもの場所にはいない。
1週間のうちの5日間ずっと話してた人が、いつもどこか別の空間にいる。
最近は少し慣れて、今日はお昼何食べてるのかななんてことも思わなくなってきている。
悲しいよ。
でも、悲しいのは悪いことではない。
また明日も、悲しさを引きずって日本海側に向かうのよ。
おやすみ。